中津箒とは
古きを尊び、装いを新たに
中津箒は、伝統的な箒作りの技術と箒にまつわる文化を後世に伝えていくために、株式会社まちづくり山上が立ち上げた箒ブランドです。 明治維新の頃、柳川常右衛門によって中津の地に伝えられた技術をもとに、現代の暮らしのなかでも役立つようなさまざまな箒を、材料の栽培から一貫して製造しています。
中津の箒作りの歴史
中津村の箒作りの誕生
中津の箒作りは、1822(文政5)年に中津村に生まれた柳川常右衛門という人物が、幕末から明治維新の頃、諸国を渡り歩いて箒の製造技術とホウキモロコシの栽培方法を学び、故郷に広めたのがその始まりといわれています。当初は農閑期の副業として行われていましたが、次第に専業とする者が出てくるようになりました。
箒作りの全盛期
大正から昭和初期になると、箒作りは中津村周辺の一大産業となり、中津村のほとんどの農家が箒作りに関わっていました。中津の箒は関西でも「東京箒」や「関東箒」といった名称で販売され、海軍にも納められていました。材料も近隣で栽培されるだけでは足りず、関東一円の各地からも調達していました。
生活様式の変化、
箒産業の衰退
戦後、安価な輸入箒の登場や生活の洋風化、より安定した収入源を求めての職人の離職などが要因となり、中津の箒作りは急激に衰退し、昭和40年代には柳川常右衛門から4代目にあたる柳川勇次商店も廃業に追い込まれました。その後は職人も徐々に高齢化し、箒作りは自宅用などのために細々と続けられるのみとなりました。
箒作りの復活を目指して
2003年、柳川常右衛門から6代目にあたる柳川直子は、かつて柳川商店京都支店の職人であった柳川芳弘の作った箒を見て箒作りを復活させようと決意し、柳川商店の屋号「山上」を冠した新会社、株式会社まちづくり山上を設立します。中津箒をブランド名とし、ホウキモロコシ栽培の復活や若手職人の育成といった事業を進めていきました。
現在の中津箒
現在、まちづくり山上には10名ほどのつくり手が在籍しています。種子を探すところから始まったホウキモロコシ栽培も数年で軌道に乗りました。中津箒では、昔ながらの箒の製造だけでなく新しい箒の開発も行い、直売や卸販売、ワークショップや講演会などを通じて、箒と箒の文化にまつわる新しい箒作りのあり方を目指し、日々活動しています。
年表
- 戦国時代
- 柳川家の祖先は後北条氏に仕えるが、小田原合戦後に帰農
- 元禄時代
- 寺子屋開設
- 幕末時代
- 屋号「かめや」旅館(柳川家本家)を営む
- 明治時代
- 屋号「山上」箒屋柳川商店(柳川家分家)を営む
- 昭和10年10月
- 鉄筋コンクリート造の蔵を箒屋3代目、初代柳川勇次が建造
- 昭和40年代
- 柳川勇次商店廃業
- 昭和50年代中頃
- 最後の職人離職(柳川商店大阪支店)
- 平成15年7月
- 株式会社まちづくり山上設立
- 平成16年1月
- 蔵を修復し、12月、箒博物館市民蔵常右衛門として開館